由緒

開山


日本寺は今から約1300年前、聖武天皇の勅詔と、光明皇后のお言葉を受けた行基菩薩によって神亀2年(725年)6月8日に開山されました。
開山当初法相宗に属し、天台宗、真言宗を経て徳川三代将軍家光公の治世の時に曹洞禅宗となり、今日に至っております。
日本寺は開山当時、七堂十二院百坊を完備する国内有数の規模を誇り、良弁、空海、慈覚といった名僧が留錫(りゅうしゃく)したと記録されています。良弁僧正は木彫りの大黒尊天を彫られ、弘法大師(空海)は100日間護摩を焚かれ石像の大黒尊天を彫られました。
仁王門の金剛力士像は慈覚大師の作と伝えられています。

御本尊 薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)


日本寺の御本尊は薬師瑠璃光如来です。東方浄瑠璃世界の教主で、瑠璃光を以て衆生の病苦を救い、病苦を救う医薬の仏様です。左手に薬壺を持っているのが特徴です。

薬師瑠璃光如来と武将


薬師瑠璃光如来は戦傷を癒すと言われており、日本寺を訪れた武将の記録も残されております。
源頼朝は石橋山の戦いに敗れた後、房州に逃れ再起を図った折に日本寺で武運を祈願し、自ら蘇鉄を手植えし、現在も大蘇鉄として境内に残っております。頼朝は鎌倉幕府を開くとすぐに荒廃していた日本寺の全山修工に力を尽くし、養和元年(1181年) 薬師本殿を再建しました。
頼朝により全山修工された日本寺は、その後、鎌倉幕府後期から南北朝時代にかけての続く戦火により再び荒廃しますが、足利尊氏により再び復興されます。尊氏は国家泰平と万民安寧を祈願し、奥の院無漏窟に参籠した事が通天窟前の石碑「房州鋸山日本寺碑」に記録されています。

鋸山を訪れた文人


鋸山には多くの文人が訪れ多くの詩歌が残されています。境内には長谷川馬光や小林一茶などの句碑も建立されています。近代文学では夏目漱石が「木屑録」に日本寺を訪れた際の様子を記しています。漱石と交流のあった正岡子規は後日、漱石とは逆ルートで鋸山を訪れ、この旅を「かくれみの」で著しています。


「人皇第四十五代聖武天皇の御宇、光明皇后宿植徳本あるが故に、六波羅密の一行忍辱波羅密の願を勤修し給ひ、御手自ら風呂をたてて、往来の男女老若千人の入浴を御起請遊ばされて、既に九百九十九人に及ぶの日、一人の病に苦しめる者来りて浴を乞う。后即ち允して浴せしむ。その者曰く『乞う若し君にして我腫物を吻ひ給はんか我が病立ち所にいえん』と。后その起請の重きを思ひ給ふて、遂に意を決して其の肌を啜り給ふに、不思議や今までの姿は忽にして亡く、光輝忽然目を射るよと見るまに、美しき童形のいとも尊ふとげに見えまつるが現れ給ひ『我は東方の教主薬師如来なり。汝信依甚だ堅固にしてよく人の為し能はざる所を成す。吾汝が念力を試みんと欲し、仮に姿を借りて汝に至りしなり。今其の本体を現はして汝の篤信に酬ゆ』と云ひも果てず東方をさして御姿を消し給ふ。皇后喜悦惜く能ず、帝に乞ふて僧行基を遣はし東国に霊山を尋ねしむ。行基即ち諸方を遍歴し、尋ねて房総の境に至り、当山の姿を仰げば、山巓分列して三尊来迎の相を現はし、嶺には常住の清風あって五種輪廻の雲を払ひ、中空より懸ける碧水潺々漲りて凡塵を洗ふ。即ち中央なるを薬師の異名、瑠璃光如来に因みて瑠璃山とし、左右なるを日輪山、月輪山と定め、此所に留つて一刀三礼手自ら薬師瑠璃光如来を彫刻し、中腹の岩窟に安置し奉り、礼拝日に怠らず。傍ら伽藍殿堂の竣工を急ぐ。神亀二年六月八日堂宇尽く成り、名を乾坤山日本寺と号す。蓋し薬師如来は東方の教主なれば、日の本に象りて日本寺と名づけしなり」(鋸南町史より)

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